日本人は玄関で靴を脱いで家に入り、家の中では裸足で生活します。ただ、世界的に見れば靴を脱いで生活する国はごく少数です。日本の住宅はどうして靴を脱いで上がるのでしょう。
まず多くの人が思い浮かべるのは「日本は昔から畳の文化だから」という理由ではないでしょうか。
しかし、家の中を裸足で生活する歴史と畳の歴史を比べると、それが正解ではないことがわかります。
靴を脱いで生活するという文化が生まれたのは弥生時代のことだと言われています。それに対し、畳は平安時代には存在していたものの、町人に畳が普及したのは江戸中期、さらには農村部まで畳で生活するようになったのは明治以降のことなのです。しかも、室町以前の畳は板敷の床の上に数畳程度の置き畳をすることが一般的で、部屋に敷き詰められていたわけではありませんでした。今でいうとラグのような感じでしょう。そのため、畳の上を歩き回って生活するのに履物は適さないため、靴を脱いで生活するようになったというのは順序的におかしいのです。
それでは日本の住宅はどうして靴を脱いで上がるのか、このことについて私は環境的な理由と日本人特有の概念的理由があるのではないかと考えました。
環境的な理由としてまず挙げられるのは日本の気候です。革靴の起源はゲルマン民族が寒さや砂ぼこりから足を守るために作ったとも言われていますが、日本の気候はその逆。雨が多く、高温多湿の状況下での靴の着用は足が蒸れて不快になります。そのため、裸足でいた方が足にとって良いことなのは明らかです。
湿気が多いということは日本の住宅と欧米の住宅の違いにも表れます。日本の住宅は湿気が溜まらないよう、縁の下を造り、高床式の構造になっています。そのため、玄関も欧米のように道にフラットな状態ではなく、框(かまち)があります。家の中に入ることを「家に上がる」と表現するのもここから来ているのです。その一段上がっているところに下足のまま踏み入るというのは心理的にも抵抗があるように感じます。
ここから、日本の気候に合わせて造られた家は、靴のまま入る家の構造ではないことがわかります。
民俗学では日本人の概念として「ウチ」と「ソト」というものがあります。日本人は「ウチ」と「ソト」を明確に区別する民族です。家についていえば、もちろん家の中が「ウチ」で家の外が「ソト」になるわけですが、日本人は家の中を神聖化し、家の外を異質なものと捉えています。そのため、ソトからウチへ入る際に、その境界にあたる玄関でソトからの不浄なもの(ケガレ)を落とし家の中に持ち込ませないようにする。その不浄なものを落とすという行為のひとつが、靴を脱ぐという動作なのではないかと思います。逆に出かけるときに靴を履いたり着込んだりするのは、ケガレから身を守るという意味合いもあるのではないでしょうか。家の中は結界の中にある清浄なる場所で、ガードする必要もないので裸足という無防備な状態でいられるのです。靴を脱ぐとリラックスできるのはこういうところから来ているのかもしれません。
実はこの話題、知人から「次に会う時までの宿題」として出されたもので、上記が私の回答でした。
私が提出した宿題に対する知人のコメントは「うーん、いいところまでいってるよ、80点だね」
その方のお話では、家の中には神様がいるから、神様への礼儀として靴は脱がなければいけないということでした。
ふと子供の頃に「お家の中には神様がいるんだよ」と祖父母に教えられたことを思い出しました。そういえば昔はどこのお家にも神棚がありましたが、近年ではすっかり神棚の保有率が低くなってしまいましたね。なんだか少し寂しいような気もします。
先程、家の中に「上がる」という言葉は家の構造に由来するという話をしましたが、家を神様のいる場所と捉えれば途端に違う意味合いも出てきますね。「上がる」は「上(かみ)」で、「神(かみ)」にも通じ、神様にお供えものをしたりする際には「お神酒を上げる」というような言葉を使います。つまり、神様のいる場所に入る、神様と接触するというニュアンスが「家に上がる」という言葉の中に含まれているのではないでしょうか。
今月10月は旧暦でいえば神無月。「神様が出雲大社に集まる月」といわれています。先日筆者が出雲を訪れたこともあり、裸足で生活する日本の住宅文化とお家にいる神様のお話をさせていただきました。
最近ではお家の中でスリッパを履いているという方も多いかもしれませんが、無垢の床を素足のまま歩くのはとても気持ちがいいものです。リフォームをお考えの方は、この「素足で家の中を歩くことの気持ちよさ」を体感できる無垢フローリングも検討してはいかがでしょうか。
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